通常のコミュニケーションは言葉のやり取りによって行われますが、セクシャリティの中では、言葉を介さない非言語のコミュニケーションが起こってくることもあります。例えばパートナーの身体に触れている時に手と肌との間に言葉なき会話が起こっていることがあります。
起こってくるという表現を使うのは、意図して起こせる行為ではないからです。
反対に相手を気持ち良くして、満たしてあげたいという意図を持って行為をしたとすれば....
善の動機であろうと欲望に基づくものであろうと、何かを為そうとする意図があれば、触れる者と触れられる者に分離します。
セックスであれば、気持ちよくする側と気持ちよくされる側の二元性だったり、イカせる側とイカされる側の二元性となることもあるでしょう。これらは分割された二元性の世界であり、一体化されてはいません。
相手を満足させよう、イカせよう等の意図を持って行為する限り、どこまでいっても分離し続けることになります。
これまでにも繰り返し強調していることですが、セックスで一つになりたいのであれば、相手に意識を向けすぎないことが大切です。ベクトルを内側へと向けて、相手を満たそうとしている意識を見つめていくことです。
そして、相手に何かをしようとする意図が消え去った時、その消え去ったスペースには神が宿る可能性があります。
この神が宿った行為をサムシンググレートとの一体化とか、宇宙とつながるとか、老子のいう無為の為とか、ラティハンなど様々な表現で世界中で語られていることなのです。
老子のいう 無為の為 とは、為そうとする行為者が無くなり、ただ行為だけがあるという状態のこと。為そうとする意図が無くなり、ただ行為だけがある時、言葉なき会話が自然と起こってくる。
たとえば手と相手の肌との間に言葉なき会話が起こってくれば、手が自動的に動き始めるので、その動き出した手をただ観察している感覚だけが残ってきます。自分が意図して手をコントロールするのではないのです。
相手を気持ち良くしようとする意図のある触れ方をした場合、触る者が送信者になり、触られる者が受信者になることで二つに分割されます。意図がなくなり言葉なき会話が起こっている時は、送受信が同時に起こります。送信する者は受信する者であり、受信する者はまた送信する者でもあるといった状態です。ここには分割がありません。
以前のパートナーに言われたことがあります。
「何が一番凄いと思ったのかは、自分と同じ感覚で触れてくるということ。普通男の人が触れてくる時って、そこじゃないとか、強すぎたり、弱すぎるってことがあるけれど、それが全くなくて、マスターベーションしている時と同じ感覚で触れてくることにビックリした。」という、最大級の褒め言葉をいただいたことがあります。
なぜこういう状態が起こってくるのかは、ここまでに書き記したように送受信が同時に起こっているからです。「ここが気持ちいい?」「このくらいの強さで大丈夫?」と言葉でのコミュニケーションをとって確かめる必要すらない。
仮にクリトリスを触れているとしたら、指先とクリトリスとの間で言葉なき会話が起こっている状態です。言葉なき会話で送受信が同時に起こっている時、クリトリスは受信者ですが、発信者でもあります。
このクリトリスの微細な発信を感じ取ることができれば、どのくらいの強さがいいのかは自然と感じ取れるはずなのです。結果として、マスターベーションしている時と同じ感覚で触れることができる。
もしクリトリスを刺激して相手をイカせたいと意図が少しでもあれば、刺激する側と刺激される側に分離してしまい言葉無き会話が起こることもない。クリトリスの発する声も聴けず、ただ一方的に発信することしかできません。
それが普通の状態、「そこじゃない...」、「強すぎる....」ということなのです。
繰り返しになりますが、相手に対して何かをしようとする意図がなくなった時、マインドが意図していたスペースに空白が生まれて、そのスペースに神が宿る。老子の言う無為の為という状態が起こってくる。これは一種の瞑想の状態でもあります。
手と肌との間で言葉なき会話が起こってくれば、手と性器の会話も自然と起こってくることでしょう。当然、男性器と女性器の言葉なき会話も起こってきます。
男性であれば、膣とセックスをしているのではなく、子宮と会話していることが感じられることでしょう。(子宮との会話は別途コラムにまとめるます)
これらの行為者無き行為、言葉なき会話が起こっていることをただ観察している。このようなセックスは二人で取り組む瞑想と言うことができるし、ご神事と言っても良いことかもしれません。
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