刺激と快楽からくつろぎと一体感へ

刺激と快楽を求めるのは内なる虚しさ

次から次へと新たなパートナーを渡り歩く人を見て、「羨ましいなぁ」と思うかもしれません。様々な種類のアブノーマルなプレイに興じる人たちを見て「性にオープンな先進的な人だなぁ」と思うかもしれません。

 

しかし、その奥にある実体は虚しさなのです。

一見羨ましく思えても、実際に体験してみると虚しいことなんです。

 

その反対に性に興味がないと思っていても、深い部分では性が抑圧され、抑圧されたエネルギーが異性への憎しみとして表に出てくることもあります。

 

いずれにせよ、性的な質を帯びた欲望はどこまでも満たされることはありません。欲望は満たしても、すぐに新たな欲望が生まれきます。欲望をいけないことだからと抑圧しても潜在化して無意識には残ります。

 

 

欲望は内側にある虚しさからやって来ます。虚しさという源泉に触れなければ、より魅力的な異性、より刺激の強いプレイ求め続けます。 

 

 

くつろぎと一体感

瞑想太郎が伝えているセックスにはおよそ刺激的な要素がありません。

ただくつろいでいることが大切だと伝えています。

いかにして相手を満足させるか、いかにして相手をイカせるかといったことに捉われがちですが、これも重要ではありません。いかにして自分がイクかということも重要ではありません。

 

それよりも、二人でただくつろいでいること。

 

二人でただくつろいでいられれば、そこに二人を包む一体感が生まれてくる可能性があります。刺激と快楽のセックスから、くつろぎと一体感のセックスへの移行をお手伝いすることが瞑想太郎の役割です。

 

だから、パートナーを満足させようとか、イカせる為のテクニックを得る必要はありません。パートナーを満たそうとする意識もイカせる為のテクニックも手放していきましょう。セックスの根源的な悦びはイクとかイカないとか、子孫繁栄のためではありません。

男女が一体であり、統合されている状態に在ること。
ここにセックスの根源的な悦びがあります。

 

何かを為そうとせずに力を抜いて、ただくつろいで交わることができれば、刺激や快楽とは異なる質の悦びが訪れるようになります。このときにセックスが二人で取り組む瞑想になり得ると理解できるはずです。

 

くつろぎと一体感

為そうとしている時には為せない

まず、分離していることに気付くこと

 

自分と相手の境界線を意識していく。

 

 

 

 

 

セックスは二人で取り組む瞑想になり得ます。
瞑想とセックスのつながりを想像できる方はあまり多くないかもしれません。

 

しかし、セックスに瞑想の質が伴うようになると、

 

皮膚一枚を隔てた”男”と”女”という物理的な壁がなくなり、二人が共鳴し合っている状態と呼べばわかり易いかもしれません。二人が共に在ることで、性的ではない、新たな質の悦びが湧き上ってきます。

 

既にこのような共鳴し合う境地を体験しているカップルもいるでしょうが、ほとんどのカップルは肉体としてのセックスに終始しているのが現実です。

 肉体としてのセックスは刺激と快楽の世界です。私も元々は刺激と快楽の世界にどっぷりと浸かり、ノーマルなことはもちろん、様々なアブノーマルなプレイも体験してきました。ですから、こういった肉体としてのセックスを否定するつもりはありませんし、刺激と快楽も素晴らしいものだと思っています。

 

けれど、刺激と快楽にはいずれ飽きがやってくるものだということを知っておく必要があります。パートナーに肉体的に魅力を感じていられるのは、おおよそ三年くらいが限度と言われています。 あれだけ燃え上がったのがウソのように飽きがきてしまいます。

 

飽きてしまえば、パートナーを替えることで新たな肉体的刺激を求めるのか、アブノーマルな方向に進むことで強い刺激を求めるのか、性を嫌悪してセックスレスになっていくかのいずれかを選択することになるでしょう。 

 

次回のコラムでは、ビデオやメディアなどから無意識に学習してきた刺激と興奮の世界から、くつろぎと一体感の世界への変容についてお伝えします。